評『Pure Core』:越智雄磨


「〈法外〉なるものに向けて――もう一つの可能な身体」

児玉北斗振付ダンス作品『Pure Core』レビュー

越智雄磨(愛媛大学文学部講師)

  クラブカルチャーからインスピレーションを受けた(と思われる)動きで作品は始まる。反復的リズムと原色の混じり合う照明の中で揺蕩う身体。ペットボトルが散らばる空間。幻覚的、サイケデリックな音と光の中、統合的な感覚が麻痺したような痙攣した身体が現れる。それは単なるキッチュな身体ではない。それどころか、その身体はいくつもの問い、社会学的、哲学的、法的、政治的、美学的な問いに深く貫かれている。

 児玉北斗の念頭には社会的、法的に議論を呼んだ風営法によるクラブにおける「ダンス禁止問題」もあったようである。2015年に風営法による「ダンス禁止」に関するシンポジウムが行われた時、ある法学の専門家が「ダンス」の存在が明晰な法の網目の中で不確定な捉え難い要素として蠢いている、という主旨の発言をしていたことが強く印象に残っている。ダンスは法の中にありながら、法の外にある。

 このような「禁じられたダンス」の問題は古代ギリシアのプラトンによってなされた社会にとって必要なダンス/不必要なダンスという分類を想起させる(cf.プラトン『法律』)。プラトンによるダンスの分類は、それはすなわち身体の分類であるが、身体の有用性、有為性のみを規範/常態として認めるものであり、そこから逸脱する身体を排除するものである。こうしたプラトンの思想は、絶えず新しい枠組みへと抜け出ようとする芸術と相性が悪いばかりか、現在の目から見れば、違和感のある他者を排除する狭量なナショナリズムにもつながる恐れもあり、批判的に検討されねばならないだろう。

 他方、歴史を顧みれば、芸術としてのダンスはおそらくプラトンなら排除の対象としてきたであろう「異様な身体」を提示し続けてきた。公演のパンフレットにはラムゼイ・バートの『Alien Bodies(異質な身体・エイリアン的身体)』への言及も見られる。Alien Bodiesとは、「それを見る我々自身のおそれ、欲望、執着」の表象でもある。それゆえ、一見異質にみえるそれは、私たちに驚くほど似た存在であるという逆説を指摘する児玉の議論は、それをある一つの形態として具体的に出現させている本作の身体と相まって説得的であった。

 公演を観た後、偶然目にした劇作家・演出家の宮城聰の言葉が《Pure Core》を観て得られた印象と共鳴した。ここに引いておこう。「ほんとうは人間だれしも自分に対して『違和感』を抱いている」。そして芸術を見ることは「自分自身への違和感」や「恐怖」と向き合い、それとの和解を得るきっかけでもある。そう、まさに私たちは、そのような契機を与えてくれる身体を《Pure Core》の中に発見したのだと思う。強烈な音と光を浴びる客席の私たちの身体もまた同じ「フロア」を共有する身体として、キネステティックに舞台上の身体と共振する。それは私たちの身体でもあるのだ。

 《Pure Core》は、他者に対する「違和感」への許容だけではなく、自身の内なる「違和感」、自身の内の「他者」を引き受けるものが芸術としてのダンスの身体なのであるということを再考させる優れて批判的な精神を宿した作品だったと思う。 

 その先に見据えられているのは、「法」や「私」の外にあるもうひとつの別の可能な身体である。