評『Pure Core』:岡元ひかる


「打撃を内在させるダンス」

児玉北斗 振付『Pure Core』レビュー

岡元ひかる(ダンス研究者)

 『Pure Core』は社会や哲学、舞踊史に跨がる問いを、真っ向からダンスの実践の領域へ持ち込んだ作品である。そこでは、私たちが異質な他者と関わり続けるための方法が、一貫して追求されていた。

 ダンサーたちが小ビンから固形物を取り出し、口に含んで水で飲み込む。本作の重要なモチーフとなっていたのは麻薬である。彼/彼女たちは何らかの「効果」が自分に訪れるのを待ち、それから各々前方へ歩み始めた。歩行運動に必要ないどころか、その妨げとなる分裂的な感覚が、あえて保持されているようだ。予測できないタイミングで、逸脱的な動きが何度も生じていた。

 この終盤シーンを見た観客は、まさかダンサーが本物の麻薬を飲み込んだとは思わなかったはずだ。だがそれだけに、その様子は「薬なしでトリップできるか?」という問いを浮かび上がらせた。

 このことは、現代思想家ジル・ドゥルーズの麻薬論を思い起こさせる。ドゥルーズは知覚を変容させる麻薬の効果に論及している。麻薬は、自分の世界から全く切り離された「外」の存在との出会いを引き起こすものだ。それは訳の分からないものが突然やってきて呆然とする瞬間のように、「私」という視点を奪い去ってしまう。ドゥルーズは、自他の境界を揺るがすこのような効果が、麻薬以外の手でも得られるはずだと述べていた。

 ダンスホールのような演出は、音や光がそうした麻薬的効果を持ち得ることを実感させた。重いビートの音、激しく点滅する照明から受ける刺激は、今にも自分の知覚のキャパを超えそうなほど過剰である。慣れてくるまで、打撃のような刺激に「私」が揺さぶられることへの小さな恐怖を感じた。

 リズムを伴う人の動きもまた、他者とのグルーヴの共有を誘うという意味で、自他が溶け合うような快感を導くだろう。印象深かったのは、そうした快感に手放しで向かおうとしないダンサーの態度である。例えばダンサーの益田さちは、共演者たちが同じリズムで揺れて動いているにも関わらず、独立したリズムを身体で刻み続けた。場のノリに同期し、他者と一体となる気持ち良さを味わったことのある人なら、その場に生じていたズレに隔靴掻痒な違和感を抱いただろう。だが彼女は場に馴染まない存在であり続けた。

 彼女がみせた態度には、自他の境界を揺るがす力を考察する本作の、慎重な姿勢が表れている。

 自他の境界を取り払うことは、他者を排除する構えと対極的であるようで、それが行き過ぎると個々の違いを無視した「一つ」を目指す傾向を招きかねない。両者は異なるかに見えて、こうした危険で繋がっているのだ。それは振付家が公演パンフレットで指摘していたように、異質な他者に向けられる嫌悪や攻撃的な反応が、実は自分が抱く欲望や恐れの感情と、根底で繋がっているということと無関係ではないだろう。ダンサーの黒田健太と藤田彩佳が、濡れた旗ごと相手の身体を互いに巻き込み、渾然となって転がるシーンがあった。ここでは欲望や暴力、服従などのイメージが同時に立ち上がって、まさにこの振付家の論点が思い起こされた。

 私たちは両者の緊張関係のなかで、文字通り、どのように動くことができるだろうか。本作では、この狭間の領域がダンスで開拓された。そしてこの開拓では、麻薬的な力をどこに求めることができるのかという問い、さらに言えば「私」の外からやってくる刺激以外にも求められるかという問いが、貫かれていたように思われた。

 ダンサーたちの動きは、音との関係性から距離を離しながら、次第に痙攣的になってゆく。あるシーンでは、フロアに散乱した棒を運ぼうとするが、ここでは目的の遂行よりも、むしろ動きの中断、ブレ、衝動的な逸脱の方が目立つ。こうした本人の分裂的な感覚によってこそ可能となるような動きが、上演の長い時間、反復されていたのである。

 打撃を受けるような効果を、自律的に生み出し続けるのは容易ではない。それでも彼/彼女たちが実践として追求していたこの問題は、社会的な問いにきわめて有機的につながってくる。それは、自分とは異なる他者を、そもそも自分の外にある存在として見なすのではなく、いかに自分の中にも認めることができるかという問いである。「クリーン」で「健全」な社会を強く求める人々にとって、既存の秩序から離れようとする振る舞いは、嫌悪や警戒の対象となってきた。本作にクラブ・カルチャーからの影響が強く窺えるのは、クラブがまさにそうした異質な振る舞いの温床と見なされてきた、日本の社会的背景が意識されたからだろう。

 最後に、暗闇のなかで降られていた大きな旗に言及したい。照明と旗の素材がなせる効果で、旗はうねる光の集合のように見えてきた。微細な光は、それぞれ異なる色を放ちつつも、しかしそれらは一緒にサイケデリックな光景を作り出す。目眩を起こしそうになりながらも、魅惑的で目が離せなかったのである。

 私たちは互いに異質であることを認めなければならないが、しかし同時に、ちょうど中空を舞っていた旗のように、共に同じ光景を作ろうと努力しなければならないだろう。自分の中の他者を認めることは、その努力を助けてくれるのではないか。本作は、このことに気づかせてくれるのである。