評『Pure Core』:竹田真理


「抵抗へのドラマトゥルギー」

児玉北斗振付ダンス作品『Pure Core』レビュー

竹田真理(ダンス批評)

 クラブ・カルチャーの外観に状況への批判を込めた野心的な作品と受け止めた。ダンサーたちの持続するテンションが思考の過程と息長く同期し、身体はステップと痙攣の間を繰り返し行き来する。ダンスフロアに見立てた劇場の内部では、ビートが肚に響くダンスミュージック、ストロボを多用した神経質な照明が踊る身体に負荷をかける。高まる空間の圧の中で、踊る主体は消失し、自己同一性は揮発する。多用な知への参照があり、読解は容易くないが、振付家の言葉を借りれば「中身を絞りだし空虚な自己となって舞台に立とうとする」ことを80分をかけて試みている。床に並べ置かれた角材の配置は化学式を思わせ、事物の構造を示唆しつつ、存在しない中心=Pure coreと呼応している。一方、3人の身体がまとう痛ましさの感覚には、政治的なドラマトゥルギーの読み取りが可能であるように思う。動き、音楽、照明、空間のリズムや圧力が均衡とともに持続する中、身体が徐々に抵抗への契機を見出していく過程は圧巻である。以下ではこの視点からレビューしてみたい。

 ステップと並んでたびたび現れる痙攣は本作の動きのベースを成すが、自身の内側から生起する力に苛まれ、打ち震える姿は衝撃的で、欲望すらも振り付けられる我々自身の疎外された主体を思わせる。ダンスフロアは快楽や衝動を発動させる装置であり、身体を制し・弄する諸力のせめぎ合う場でもある。痙攣する身体は圧倒され、支配され、何かに苛まれ、被(こうむ)る者としてあるが、その「何か」は身体自身に由来しており、かつ、自身の意志を超えている。そもそもステップは自発的に踏まれるのか、欲望や快楽は踊る身体がそれを欲したのか、それを意志する主体は消失に向かったのではないか、むしろ主客が混濁したまま踊らされているのか。こう感じざるを得ないようなアイロニカルなトーンに劇場空間は覆われており、このディストピア的な光景に今日の私達の置かれた政治状況を重ねて見ることは決して唐突ではないだろう。晒されるダンサーたちの身体は生の細部にまで及ぶ資本の論理に振り付けられ、支配や暴力、搾取と排斥、さまざまな権力や欲望、感情の作用が及ぶ客体となる。床の化学式は客体化される身体の物質性の暗示に見える。Pure Core、純粋なる核とは、ここでは、物質に還元される身体、あるいは危機を耐える抵抗体としての身体のモチーフを想起させる。

 振り付けられる身体への視点は、身体を巡る政治状況と舞踊史との交点と言えるかもしれない。ステップから痙攣へ、すなわち自発から強制へ、能動から受動への移行の過程で、振り付けられ、動かされる身体は、自由で自発的なムーブメントというダンスの美学に疑義を差し挟む。ダンスの身体が何ごとからも開放された自由の地平でオリジナルな言語を紡ぎ出していると考える人は、今日では少数派だろう。狭義のポストモダンダンスが推し進めた還元主義を経て、歴史性を回復する形で展開してきたといえるコンテンポラリーダンスは、記憶と物語(ナラティブ)、身体の固有性と自己同一性(アイデンティティ)、他の身体との共同性(コレクティブネス)を創造のリソースとし、尊重してきた。創造する身体はなんら前提のない自由の中にあるのではなく、現前する身体に刻み込まれた歴史や属性に規定され、背景を負っており、それ故に固有の存在として、共同体や社会の関係性の網目に配される。ポストコロニアルの思潮とも相まって身体はその多様性を謳ってきたのである。しかし本作が見据えているのは、もはやこのような編み目の中で振り付けられる身体ではないのだろう。新自由主義が社会の構造や地理的分類を大きく変えた現在、記憶や固有性、多様性に基づいた身体観はその前提を失う。むしろ編み目の外に置かれてきた人々――難民、移民、被災者etc.の、より過酷に疎外された身体が可視化される現実を前に、意志なき快楽としてのステップと、疎外された身体としての痙攣に還元された本作のダンスは、振付への断念を告げているように見える。

 振付の断念された光景の中で、ダンサーたちはステップを踏み続ける。絶望をサバイブする3人はペットボトルの水を飲み、何かの錠剤を分け合う。この薬物摂取の場面には痛ましさとタナトスが交錯し、ひどくインパクトを受けた。床の化学式は薬(毒)物の暗示であり、粉末を固めた錠剤の摂取には反撃へのモーメントが隠れているようにも思える。一方、水は踊り疲れた身体を潤し、癒し、浄めるが、「浄化」の凄惨な意味にも転じ、多義的だ。後半には、おそらく水に見立てた薄く反射を伴うシートを用いて、死、弔い、儀式、浄化、犠牲を想像させるナラティブなパフォーマンスが行われるシーンがある。動かなくなった身体を覆うエマージェンシー・ブランケット、またはサバイバルシートと呼ばれるそれは、難民、移民、被災者、さらに2021年1月現在において放置されるコロナウィルス感染者の存在を前景化している。

 ステップと痙攣、その均衡を濃やかな質感で保ちながら、終盤までテンションを持続して踊るダンサー3人の身体とスキルは称賛に値する。シンプルかつ執拗な構造の中で彼・彼女らは、やがて角材を手に取り、抵抗と闘争の身振りを見出していく。黒田健太の繰り出すシャドーボクシング、藤田彩佳、益田さち、それぞれのソロ・ムーブメント、勝利を凱歌するかのような3人の身振りが均衡を破り現れ出るのを見るとき、ダンスフロアが飼い馴らされない身体のための抵抗の砦となり得ることが喚起される。しかしそれらのモチーフが弁証法的に本作を結語へと運ぶわけではない。劇的ピークを注意深く避け、カタストロフィに流れ込むことを回避し続ける思考と演出は、諸々の力に引き裂かれる身体の抵抗と終わりのない闘争を示しているのだと思われる。それが絶望であるのか希望を意味するのかは見る者にゆだねられている。